T


 一面の砂を歩いていた。
 地に足を付ける度に靴の中に砂が進入し、減り込み、足取りが重くなる。
 それもそのはずで、僕の荷物は食料に水分、その他生活必需品が隙間なく敷き詰められた体の大きさに似合わないリュックサックを背負い込み、右手には折り目が沢山ついたコンパクトサイズの地図、左手には汗でぬるぬるなコンパスを滑り落ちないようにしっかりと握り締めていた。
 地図の読み方を間違っていなければ、あと数十分で村が見えてくるはずである。しかし、砂埃が当たり一面に舞い上がっているためにまともに正面を見ることはおろか、目を開けることもままならない。地図とコンパスを一瞬確認しては目を閉じる、という動作を繰り返し行っている。場所が場所であるということ、時間が深夜帯に差し掛かろうとしていることを考えると、人にぶつかる事はまずないだろう。
 ふと、コンパスを右手に持ち直し、ポケットに閉まっていたキューブ状のスイッチを取り出した。透明なカバーが付いており、スイッチの色はラピスラズリのように深い青をしている。これを押すとき、僕もきっと同じような色の目をしていたであろう。
 どん底に突き落とされるかのような、青。
 もうきっと、あの頃には戻れない。
 あの頃――?
 心中で何かがぐるぐると巡り巡って、込み上げてきたところで、やがて消えた。
 いったい、どの頃を指していたのか。
 一度嘆息し、ポケットにスイッチを仕舞い込んだ。
 左手で、前の村の名物であった日射防御面積の広い麦藁帽子を押さえながら、小さく目を見開いて正面を確認すると、そこには確かに「集落」があった。
 村である。
 麦藁帽子をより深く被り、暖かい強風に吹き飛ばされないようにし、地図と、コンパスをリュックサックの中に仕舞い込んだ。
 数十分ほど歩き、〈国道三七六四号線〉に出た。数分おきに一台の車が通るか通らないかの交通状況である。
 再び地図を手に取り、入念に方向を確かめながら国道沿いを歩くと、大きな門のようなものが、ぼんやりと姿を現した。古き歴史を掘り起こしたかのような荒い石によって作られているようだ。右門には、ギリシャ神話を思わせるような絵が描かれており、左門には、古代エジプトのヒエログリフと見受けられるような文字が刻まれている。どの村の門もそうだが、確かな威厳があり、何か絶対的な力を持っているように感じる。それでいて、一つ一つの村で門のデザインが違い、個性豊かである。
 少し昔は「村章」というものがあったように、今ではそれが村の入り口にある門によって示されているのだ。
 だんだんと門がはっきりと見えるようになるにつれ、門の両脇に、門番らしき人物がいることに気づいた。
 門番については、居る村と居ない村がある。居るということは、身分の証明などをしなければならない。煩わしいことなしにして入村できたらこの上ないのだが、この村はそうもいかなそうだ。入村時に身分証明をしてくる村は、ホテルに泊まるにしても、博物館や美術館に入るにしても、必ず証明書を見せる必要がある場合がほとんどだからだ。
 あまり気分が乗らないまま、門の前までたどり着き、足を止めた。
「旅のかたですか」
 右手前の若い門番が、僕の容姿を確認してから言った。
 どこからどう見ても「旅人」であり、観光者や写真家には見えやしない。
「まあ、そんなところです」
 実際のところは、観光者でも写真家でも、増してや旅人でもない。
「ここにサインを」
 今度は左手前の中年の門番から、野太い声で専用の用紙を僕に渡した。
 どうやら、身分の証明は要らないようだ。
 僕は得意の偽名を用紙に書き、手渡す。
 国民総人口の計算ができないような現在の国の状況からして、名前やパッと見の容姿だけで、膨大な人口の中から個人の特定などできるわけがない。
 左手前の門番は容姿を受け取り、数秒眺めたあと「確かに」と言って用紙をポケットの中に収め、「それでは、築木館さんの入村を許可します!」と門の裏側にも聞こえるほど大きな声を出した。
「どうぞごゆっくり!」
 若い門番が、敬礼しながら鋭く言い放った。
 村の内側から足音が聞こえたかと思うと、ギィ、という音とともに、門が少しずつ両側に開きだした。

       ▲ ▼ ▲

「ツアーのコースはどうなさいますか?」朗らかな笑顔でお婆さんが言った。
「いえ、コースはいいので……この村で一番有名なものと、その場所までの地図を下さい」
 老婆は、窓口のガラス越しでも聞こえるほどの溜め息をついていた。あからさまに表情も歪んでいる。
「少々お待ちくださいね」
 老婆はそう言って、大きな棚を探り始めた。
 辺りを見渡すと、観光に来たと思われる人物が数人、館内に分散していた。どの人も一人での観光のようだが、ただ一つ共通していることは、首に大きなカメラを提げている、ということである。
「えー……一番有名な場所は『ヘリック岬の太陽像』で、場所は」地図を開く。「こちらになります」
 その場所は、ここから数十キロも離れた場所に位置していた。
「遠いですね」
「第一便のバスが今から二五分後に出発します。まだ朝ですので、お昼ごろには到着するでしょう」
「あの、朝食を食べる時間が欲しいので……」腕時計を見た。時刻は午前八時三七分を指している。「午前十時以降のバスがいいのですが」
「十時十分に第三便のバスが出ますが、かなりの混雑が予想されますので、出発の約一時間前にはバスターミナルでお待ちすることになりますよ」
 え、と僕は当惑した。
「朝九時になると、他村からの観光者が一斉に来られます。最近国から『認定観光村』に指定されたことで新幹線の停車駅に当村が加わり、その始発がこちらに到着するのが九時二分ですので」
 観光業が盛んな村、ということか。
「それにしても貴方様は珍しいですよ。新幹線以外でこの村に来るような人は、そうそういらっしゃいませんから」
「そうなんですか」
「ええ。国の『認定観光村』に認定されたからといって、観光庁のウェブサイトに小さく紹介されるだけで、知名度の飛躍的上昇には繋がりませんから。しかも、当村を認定するに当たって、国の役人が調査に来るのかと思いきや、電話での村の観光資源調査のみでしたからね。国のすることはつくづく杜撰です」
「それはひどいですね……」
 それについても僕は事前に知っていた。観光庁のいい加減な仕事が原因で僕が振り回されるのは非常に不服なことだが、詮方ない。
「あ、話を戻します、ね」
 会話が脱線していることに気づいた僕は、慌てて軌道修正に乗りかかった。老婆も「ああ、すみませんすみません」とこくこく小さく頷いた。
「十時十分のバスに乗ることにします。バスの中での飲食はできますか」
「はい、可能です」
「でしたら、ここから一番近くのコンビニを教えて下さい……とりあえず何か体に取り入れないと」
 老婆から、徒歩三分程度の場所にあるコンビニの案内を受け、そこで二枚入りサンドウィッチと三五〇ミリリットルのお茶を購入した。





       U


「お飲み物は何になさいますか?」
 朝食後、ふいに眠気に襲われて、意識が抜け飛びそうになっていたところ、若い女性に少し大きめの声で問われた。
 僕はびくりとして「あ、えと、こうひい、もらえまふか」と慌てて答えた。口元は涎が固まっており、おそらく目の下にくまができている。
 昨夜は一睡もせず、ただ砂埃の中を歩いていたのだから、さもありなんと思う。
「はい、珈琲ですね。かしこまりました」
 女性は僕の発音には一切触れず、笑顔で受け答えをした。これぞ社内教育の賜物である。
 バスの窓から外を眺めると、前方には青々とした山脈が連なっていた。目的地へ行くにはあの山々をのぼりくだりしなくてはならないはずなので、まだまだ先は長い。
 バスの乗客は、僕以外のほとんどが観光客のようだった。少数名、メカメカしいものを窓の外に向けて構え、興奮した様子でぱしゃりと音を立てている人も見受けられる。僕はただ機種が何処製なのかということだけが気になっていた。
「――初めまして!」
 バスの中で飛び交う言葉の中で、はっきりと近くで聞こえた声があった。声のほうを向くと、隣席に座っていた女の子だった。まだ小学校中学年くらいの身長と顔立ちだ。
「は、はじめま……して」まだ眠気が抜けていない。むしろ車内で仮眠を取りたいところだが、少女の光沢さえ確認できるほどの眩しい目線からして、そうはさせてくれそうにない。
「お兄さんも観光ですか?」
「まあ、観光はついでだね。僕は旅人だから」
タビビト≠ニいう単語を聞いて、少女は目を輝かせた。
「……旅の人!」少女の声のトーンが上がった。
「そんなに珍しい、かな」
「珍しいかはわかんないですけど、わたしは将来旅人になりたいので!」
 こんな年でも、将来設計をし始めていることに感心した。
 しかし、旅人というのは一般的に「自由奔放に生きている」というイメージがとても強い。だが僕も本当は旅人というわけではないので、実際のところどうなのかはよくわからない。少なくとも、僕よりもは自由奔放なのではないかと思う。
「ねえ、どうしたら旅人になれるの?」
 少女の眼差しは希望に満ち溢れていた。
「まあ、お金」僕はあからさまな咳払いをする。「なりたいという気持ちさえあれば、いつだってなれるよ」
 少女は「じゃあ、今すぐなる!」と言いながら席を立ち、弾む心を抑えられず、体も自然と飛び跳ねていた。十回ほど跳ねている間は、僕は「動くバス車内でジャンプしても同じところに着地するのか。不思議だ」などと考えていたが、「いやいや、ご両親の許可とか、学校とか、色々あるでしょう」とおっとり刀で少女に言い、一先ず席に着くよう促す動作をした。
「なりたいという気持ちは十分です! そうと決まったら旅に必要なものをご掲示ください!」
「ごめんお兄さんが悪かったよ。だから君の左隣のご両親を心配させないであげて」
 僕は嘆息し、少女の背後に視線を移した。
 少女が振り向くと、彼女の両親は心配そうに少女に目をやっていた。
 その後、彼女の父親が「旅は何が起こるかわからないんだぞ」「帰ってこられなくなるかもしれない」と必死に説得したが、少女は慣れているのか半ば受け流していた。
 少女とその家族は、自分たちの目的の観光場所でバスを後にした。バスを降りるとき、名残惜しそうに僕のほうを見つめていた。
 それほどなりたいのなら、いつかはなれるかもしれない。僕は、少女の言う旅人ではないけれど。

       ▲ ▼ ▲

 ――えー、ヘリック岬、ヘリック岬でーす。お忘れ物の無いよう、ご注意くっさいあせー。
 『ご注意! 臭い汗』とは何事か、と驚きながら目を見開いた。結局あの後、再び睡魔に襲われて休息していたのだ。
 僕を含め、乗客のほとんどがこの停留所で降りた。やはりこの村一番の観光地は伊達ではないようだ。
 かなりの走行距離であったにも関わらず、観光専用のバスであったため、どこまで乗っても一律二百円で済んだのは有難い。
「ヘリック岬の太陽像っていうのは……あれですか?」降りてすぐ、観光案内らしき中年男性が居たので、それっぽい像を指さして尋ねた。
「はい、あちらがヘリック岬の太陽像になります。この像は約三千年ほど前の我々のご先祖様がかつて信仰していた宗教《太陽教》の教えによるものでして、太陽教では太陽こそ神であるという思想がありました。そこで、神である太陽を称えようということで作られたのが、この太陽像なのです」
「三千年……」
「そうです。その背景には長い歴史が存在しています。この村の誇りの一つです」
 像の周りには、先ほどの観光客が列を作って記念写真を取ったり、写真家たちがゴツいカメラでぱしゃぱしゃ撮影している。
「本当に人気なんですね」
「ええ。毎日五百人ほどの観光客が訪れます」
「像だけでですか?」
「ええ」
 相当な人気であることは間違いなさそうだ。
 僕はリュックサックからカメラを取り出した。
「ずいぶん変わった……カメラ、ですね」
 カメラであることの認識にも時間がかかるほど、一般的に見れば僕のカメラは異様な形状をしていた。
「よく言われます」
「なんというか、昔のラジオ機器みたいです。アンテナがあったりとか、スピーカーらしき穴が左右に開いていたりだとか」
「いざとなればラジオも聴けるんですよ」
「それは便利ですね」
 男性は興味深そうに僕のカメラを見ていた。
 僕はカメラを構えた。
 ピントを合わせ、シャッターをきる。
 ぱしゃり――。
 無数の観光客と数名の写真家も一緒に映った、太陽像の写真を撮影した。





       V


 僕が着いた頃には、既にロビーは観光客で溢れかえっていた。家族連れや夫婦、カップルに老夫婦とその世代は多岐に渡る。
「お名前と、入村日をこちらに明記して下さい」
 受付の女性が手元の紙を指して説明した。ネームプレートには「造道」と書かれてある。僕はさらりとペンを走らせ、偽名と本日の日付《2469年10月04日》を書いた。
「差し支えないようでしたら、どの村から来られたのかもご明記下さい」
 受付の造道さんは『お名前』と『入村日』の欄から少し外れた別の欄に指を置いて言った。
 僕は「旅の者ですので」と一言言うと、造道さんは承知しましたと言って紙を下げた。
「お名前と入村日の照合を行ってきますので、少々お待ち下さいませ」
 彼女はそう言って、奥の書類が大量にある薄暗い部屋へと向かって行った。
 僕はその間、自分の出身村について考えていた。覚えていないのだ。何度も何度も記憶をばら撒いて辺りを眺めて探っても、一向に分からない。時間が経つにしたがって、『どうでもいいこと』として整理してしまっている気がする。
 ――あの頃……。
 昨夜の思考が脳裏を過ぎる。
「確認しました。ではどうぞ、チクキカン様のお部屋は三七五号室になります」
「あ」偽名だが、慌てて訂正する。「つきのきだて、です」
「あら」造道さんは赤面した。「すみません……つきのきだて様、ですね。どうぞこちらへ」
 今まで数々の村を訪れてきたが、その先々で僕は名前を転々としていた。初めこそ佐藤や小林など、メジャーな名字を使っていたが、今となってはストックがなくなってきて、マイナーな名字を使用している。築木館という名字を聞いてわかるとおり、もはや存在するのかどうかもわからない領域にまで達しているのだ。
 そのまま部屋に案内され、部屋の外でカードキーを渡すと、彼女は一礼して持ち場へ戻った。
 彼女の足音が聞こえなくなり、僕は手渡されたカードキーをスキャンする。
 ぴぽん、ぱぽん、という音が鳴り、ランプが赤く点滅した。数秒後、青色に変わり、ドアががちゃりと音を立てた。
 ドアノブに手を差し伸べると、鍵が開いていた。近頃はどこもハイテクである。
 部屋に入り、電気をつける。予めビジネスホテルがあるか探していたが、観光業に力を入れすぎているせいか、まともなものがなかった。しぶしぶ観光ホテルを選択するに至ったが、お金も僕が出しているわけではないので、結果的に僕は得をしたことになる。
 時刻は十九時三七分を指していた。
 夕食は二十時運ばれてくると、受付の造道さんが言っていた。
 きょろきょろと室内を見渡す。ベッドにテレビ、百円を入れなければ開かない仕様になっている冷蔵庫、窓際に少し出っ張って存在する小さな和室。ちゃぶ台があり、その上にはせんべいがいくつか用意されていた。一人の部屋にしては、無駄に贅沢な気もするが、観光ホテルだから仕方がない。
 カメラを取り出し、観光案内の男性に「ラジオが聴ける」と説明したアンテナを立てた。そして、昼間に撮った写真を表示し、〔ツール〕をプルダウンで表示し、その中から〔音声入力〕を選択。スピーカー部分へ向かって「観光スポット、ヘリック岬の太陽像」と発声した。すると、少し遅れて画面に『カンコウスポット ヘリックミサキノタイヨウゾウ』と表示されたのを確認すると、僕は〔送信〕を押した。
 アンテナを伝って、相手側へ向けて情報を受け渡す。送信状態が百パーセントになると、僕はカメラの電源を切ってリュックサックに仕舞い込んだ。
 それとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
 どうぞ、と言うと、先ほどの受付の造道さんではない、別の女性が部屋へ入り、一礼した。
「失礼します」
 女性は海鮮料理を中心とした夕食をテーブルの上に並べ、九時になったら取りに来る事を伝えると、ドアの前でまた一礼し、部屋を出た。
 広いテーブル一面に置かれた料理を確認する。中央奥には船の入れ物に惜しみなく敷き詰められた各種刺身盛、左奥に透き通ったレモン色をしたたくあんの漬物、右奥にお醤油。手前中央にお寿司が、ウニ、大トロ、イカ、甘エビ、イクラ、サーモンと六貫。隅にはガリが少量。左手前には真鱈入り湯豆腐、右手前には薄切りの柔らかそうなステーキが十切れ。
 僕はまずお寿司に手を出した。まずはイクラに手を出した。僕はイクラが大の好物なのだが、このことを言うと大抵の人は「子供だなあ」と言ってウニを薦める。僕はウニは嫌いだ。
 ふと思い出したが、ガリにお醤油を浸して、ネタに付着させて食べるというのが軍艦巻きの正式な食べ方だそうだ。面倒なので実践したことはないし、する予定もないが。
 続いて湯豆腐を食べる。湯豆腐にはでかでかとした真鱈が二切れ入っており、他には椎茸や蒲鉾、春菊、ネギが入っていて、鰹節が塗してあった。木製のおたまで掬って頂く。豆腐はちゅるりと口の中に入り込み、熱いのではふはふと口内で躍らせながら飲み込んだ。
 ステーキはとろけるような柔らかさを演出していた。
 寿司があるのに刺身とはこれ如何に、と思いつつ、地元で取れたのであろう刺身各種を次々に口へと放り込んだ。
 最後にたくあんをパリポリと食べると、僕は程よい満腹感に包まれた。
 ここのところ移動中はカロリーケイトとポカリスウィッチしか口にしていなかったため、本来よりも余計に美味しく感じることができた。
 時刻は八時四三分を指している。僕は温泉に浸かるべく、着替えの準備をした。

 頭上に湯気を立たせながら自室へ戻ると、既に夕食はキレイに片付けられていた。
 僕はベッドに座った。ベッドは思いのほか弾力性の強い素材のようだ。
 ベッドがふかふかであったこと。昨日は寝ずに砂が舞う中歩いていたこと。バス内で数十分の仮眠しか取っていないこと。様々な理由が重なって、僕はこてんとベッドをに横たわり、そのまま深い眠りに就いてしまった。

       ▲ ▼ ▲

 朝食は大広間でのバイキングだった。先日の観光客たちが朝から元気に食事を楽しんでいる。普段の朝は機嫌が悪い僕も、今日の朝に関しては決して不機嫌ではなかった。昨夜はとても快眠で、とても清々しい気持ちだからだ。
 お皿にフレンチトーストとベーコン、サラダ、コーンスープを取って席に着く。僕の朝食はいつも簡易的である。
 席でフレンチトーストを頬張りながら、本日の予定を考えていると、どこからともなく「いただきまぁす!」という、聞き覚えのある元気な声が聞こえた。
「あっ」先に気づいたのはその声の主のほうだった。「旅のお兄さん!」
 某Eテレの『歌のお兄さん』的存在に認識されていることに関しては置いておくとして。
「君は確か、昨日バスで……」旅人になりたいと言ってご両親を心配させた子、とは言わなかった。
「お兄さん、ここに泊まったんですか?」
「そうだよ。君や、ご両親も?」
「いえ」少女は微笑む。「私は、ここのホテルの経営者の娘なんですよ」
 え、と僕は吃驚した。完全に予想外だったことの他に、矛盾する点がいくつかあるからだ。
「観光客じゃあ……」
 少女は首をかしげたが、すぐ解かったのか、口を開く。
「観光専用バスを利用してたから、普通そう思いますよねー。でも実際、観光バスってどこまで行っても一律二百円ですし、地元民も普通に使うんですよ!」
 思えばあの時、少女の一家はやけに荷物が少なかった。
「思いっきり観光名所らしきバス停で降りてたけど」
「祖母の家の最寄バス停ですので! ちょうど昨日は祖母の家に用事があって」少女は胸の前で両手をぐっと握り締め、まじまじとした表情で「それにしても奇遇ですね、私の家のホテルに泊まっていただなんて!」
「そうだね……」
 僕は旅人を装っているがために、またご両親に迷惑をかけてしまうのではないかと気が気ではなかった。
「それで、今日はどちらへ? もう次の村へ行かれるのですか?」
「いや、まだ」僕はリュックサックに手をのばす。「何箇所か名所をまわるよ。今日明日で次の村かな」
 リュックサックから、ここに辿り着くまで使ったボロボロなコンパクトサイズの地図を取り出した。
「……これじゃダメだな」
 折り目がつきすぎて、細かな文字が読めない。
「あ、それなら」少女はポケットからいくつかある紙のうち、一枚を手に取る。「これ、村の観光案内です!」
「あ、ありがとう。助かる」
 僕が受け取ると、少女が「そうだ!」と何か思い立ったかのように声を発した。
「今日一日、私が旅人さんに観光案内していいですか……!」
「えっ?」
 突然のことで、少し戸惑う。
「色々とこの村の自慢の観光名所を教えてあげたいんです、お願いします!」
「え、えと……」僕はずっと持ったままだったフレンチトーストを皿に置く。「まあ、タダでガイドさんがつくと思えば、嬉しいかな」
 少女はぱあっと花が咲いたような笑顔をして「そうと決まれば早く朝食食べちゃって下さいね!」と言い、バス内でやっていたようにまたぴょんぴょんと跳ね始めた。
 再びフレンチトーストを口元に近づけると、僕はふと大事なことを忘れていることに気がつき、トーストを再び口から離す。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はつきのきだて俊樹って言います。君は?」
「つきのきだて? つきのきだてって、どういう字ですか?」
 まあそうなるだろうとは思った。いくら地元の一地名だったからといってこの名前を選択したのは過ちであったと後悔する。
「建築の築の字に、植物の木、最後に図書館とかの館の字で、築木館だよ」
 少女はいまいち理解しているのか微妙だったが、つきのきだて、つきのきだて、と何度も呟いているうちに覚えたようだ。
「え、えっと、私は、これ!」
 そういって少女は、学校の名札のようなものを僕に見せた。『妙見結』と書かれている。
「みょうけん、ゆい? でいいの?」
「確かに妙見はミョウケンって読みますけど、私の場合はミョウミです!」
 通常、妙見という字はミョウケンと読み、ミョウミとは読まない。
「なんか、読みづらいね」
「お互い様ですよ! あと早く食べて下さい」
 頂きますと言ってからずっと話していたはずである結ちゃんの皿は、いつの間に食べたのか既に何もなかった。
 僕は食べかけのフレンチトーストを、焦りながら口いっぱいに頬張った。





       W


「早く!」
 僕は結に手を握られホテルの外へ、道路へ、そして中心街へと連れ出されていた。
 いずれ中心街へ来ることは最低限の目的の一つであった。僕は中心街の栄えぶりを見るだけで、ある程度の村の人口を把握することができる。「村」というだけあって、そもそもの規模がどこの村も少ないため、中心街以外の地域に人が流れて街が廃れるという心配性がないのだ。
 本日が土曜日であること、現在が午前中であること、天気が晴れであることを考慮したうえでの目の子算だと、この村の人口は約千人であることが推測できる。
 しばらく僕の手を引っ張っていた彼女の手が離れたと思うと、遠くから声が聞こえた。
「こっちこっち!」
 声の方向へ顔を向けると、結の姿が、豆粒もの大きさになるほど遠くで視認できた。
 手を振る結に、僕は走って追いついた。
「……まだなの?」息を切らしながら結へ問う。
「ここ!」
 彼女が指差した場所には、金箔で【××村観光記念博物館】と記されていた。
「村の歴史がわかりますよ! さあ入りましょー」
 そういって彼女は館内にそそくさと消えていった。
 僕もまた、後を追うかたちとなって館内へと入った。

       ▲ ▼ ▲

 館内は薄暗く、壁に等間隔で小さな光が灯されていた。受付には数人の、先日見かけた観光客たちが居流れていた。受付の横には小さく、写真撮影禁止、ペット禁止、展示物接触禁止と書かれていた。
 僕と結は観光客の列に並んだ。
 後から先日のカメラ好きな方々が入館した。《写真撮影禁止》の文字を見て、少し残念そうにカメラを仕舞っていた。僕は、博物館となれば普通は撮影禁止であることくらい容易に判断できるのではないか、と疑問に思った。
「入館料は大人千円、子供五百円になります」
 僕らの番になり、料金が説明された。結は僕のほうを黒曜石のような眼差しで見つめている。僕はその強請り光線に負け、結果として千五百円が財布から消えた。

 展示物は郷土の歴史的な文献や遺跡、建造物などが主となっていた。入ってすぐは食料を保管する目的で作られていたとされるツボや狩猟で使う武器がガラス張りのディスプレイに丁寧に設置されており、一つ一つに長文の説明が書かれていた。奥のほうからは音声が聞こえてくる。渡されたパンフレットによると、村の歴史を分かりやすく説明するビデオが放映されているのだそうだ。
「旅をしてると、訪れた村々の歴史を知りたくなるんですよね!」
「まあ、そうだね。ここは滞在中に絶対行こうと思ってた所だよ。ありがとう」
 お礼を言うと、結は照れ笑いを浮かべた。

 僕があまりにゆっくりと一つ一つの遺跡や文献を興味深く見ていると、やがて結が飽きだしたのか「ちょっとトイレ行ってくるー……」と言って赤いトイレマークの描かれた方向へ歩いていった。
 腕時計を確認すると、既に入館してから一時間が経過していた。子供には全く面白みのない場所で一時間というのは、それだけでかなりの苦痛であろう。そんな場所へわざわざ僕を連れ出してくれたということは、それだけ旅人への憧れが強いということだろうか。
「ずいぶんとご興味があるようで」
 突然声をかけられ、僕はびくりとして振り向くと、胸に当館職員であることが記されている老いたお婆さんがいた。
「ええ。旅人ですから、訪れた村の歴史には興味があります」
「まあ」お婆さんは一切表情を変えていない。「旅のお方ですか」
 僕の背後にいたお婆さんは、杖をついて、僕の隣に移動した。
 そして杖を振り上げて、一つの巻物を指差す。「これが古代から伝わる文献――」
「あっ」僕は慌てて止めた。「もうそれ、十分見ましたので……」
 大抵老人の話は長くなる、ということを僕は嫌になるほど経験してきた。他の村の博物館でも同じように高齢者に声を掛けられ、一つ一つ詳しい説明がされて途中で意識があらぬ方向へ飛んでいったがために、このように反射的に対応できるようになったのだ。
「――と、決められた」
「……はい?」
 僕は眉を動かした。
「古代から伝わる文献であると、上の役人が、勝手にそう決めたのじゃ」
 お婆さんは下を俯いた。
「どういう、ことですか」
 僕は眉をひそめた。
 お婆さんは杖で巻物の紙の部分を示した。「ここを見ておくれ。……不自然に埃がついとる」
「古いんですし、埃がつくのは当たり前ではないですか?」
 お婆さんは微笑した。「これは巻物じゃぞ。巻かれているがために埃はつき難いはずじゃ。なのに紙の中央部分にやたらと埃がついとる。筆かなんかで付けたかのようにな」
 言われてみれば、確かにそんな感じはする。
 僕の心の中では、小さな葛藤が起こり始めていた。
 まだ腑に落ちない僕を横目に、お婆さんは話を続ける。
「それだけじゃあない」お婆さんは巻物の隣の写真に杖を伸ばし、ガラスに二度三度ぶつけた。「これじゃよ」
「これは、ヘリック岬の太陽像ですか」
「そうじゃ。撮影日は2120年になっとるな。じゃが、よく右下を見て欲しい」
 そう言って、お婆さんは右下に映っている人物に杖を移動する。
 その人物は、大きなカメラを首にぶら下げていた。
「この人物は、桂木清といって、有名な写真家じゃ」
「なぜ分かるんですか。写真は焦点が太陽像に合わさっていて、この人物の顔は少しぼやけてますよ」
「そうなんじゃけどな」お婆さんは後ろを振り向き、先日や先ほど見かけたカメラ好きの方のうちの一人を手招きした。「彼が、桂木清の孫じゃ」
 彼がこちらへ来ると、お婆さんが簡単に状況を説明した。
「初めまして。桂木樹吉といいます」
 彼は律儀に僕に挨拶をした。祖父と同じく「きよし」と読むが、字が違う。
「彼はこの村の住人で、芸術系の学校に通っておってな。《毎日変わりゆく風景と太陽像》という題材で写真を撮る、という課題をしているそうじゃ。そこにたまたまわたしが太陽像を訪れて、彼を見つけて声をかけたところ、名前が桂木だと聞いてピンと来たのじゃよ。すぐに彼をここに案内して、写真を見せた。ぼやけていても祖父の顔は孫なら分かるじゃろう?」
「だから、あんな熱心に太陽像を取っていたんだ……」
 僕は論点が違うことに気がついて、あっと声が漏れる。
「他にも数人居たと思うけど、同じ学校の仲間ですよ。ちなみに今日もあのバスに乗って撮ってきました」
「どうも、ご丁寧に……。――ところで、祖父ということは、今は2469年だから、さすがに2120年よりもは後ということになりますよね」
「その通り。実際、彼の祖父は2396年生まれで存命中じゃ。念のため彼に祖父に聞いてもらったが、間違いなく2438年の夏に太陽像を訪れて写真を撮っていたということが分かったわい」
「ということは――」と、僕。
「嘘っぱちですよ」樹吉が溜息交じりに言った。「祖父によると、あの岬は元々立ち入り禁止区域だったそうです」
「何のために、こんなことを?」
 僕の質問が野暮だったために、お婆さんは嘆息する。
「観光業に力を入れるためじゃよ。数十年前まで、この村は田んぼと畑のみしかなかった。伝統的なものはこれといってなく、経済力も乏しかった。他村にかなりの遅れをとっていたのじゃ。しかしいつからだったか、突然古代遺跡を発見しただの、古い貴重な文献が見つかっただのと騒ぎ始め、気がついたらここまでになっていたのじゃよ」
「嘘の遺跡で経済を発展させ、つい先日には国から『認定観光村』にまで指定されました……」
 樹吉は複雑な表情を見せる。
「さっき言った巻物じゃが、他の巻物も同様じゃ。この二つどころか、全部が全部嘘かもしれんの……」
 お婆さんも彼と同じ表情であった。
 薄暗く灯された館内が、更に暗く感じられた。
 僕の心の中の葛藤は終結し、黒い塊が祝杯を挙げていた。


≪ Prev - Top - Next ≫