V


 僕が着いた頃には、既にロビーは観光客で溢れかえっていた。家族連れや夫婦、カップルに老夫婦とその世代は多岐に渡る。
「お名前と、入村日をこちらに明記して下さい」
 受付の女性が手元の紙を指して説明した。ネームプレートには「造道」と書かれてある。僕はさらりとペンを走らせ、偽名と本日の日付《2469年10月04日》を書いた。
「差し支えないようでしたら、どの村から来られたのかもご明記下さい」
 受付の造道さんは『お名前』と『入村日』の欄から少し外れた別の欄に指を置いて言った。
 僕は「旅の者ですので」と一言言うと、造道さんは承知しましたと言って紙を下げた。
「お名前と入村日の照合を行ってきますので、少々お待ち下さいませ」
 彼女はそう言って、奥の書類が大量にある薄暗い部屋へと向かって行った。
 僕はその間、自分の出身村について考えていた。覚えていないのだ。何度も何度も記憶をばら撒いて辺りを眺めて探っても、一向に分からない。時間が経つにしたがって、『どうでもいいこと』として整理してしまっている気がする。
 ――あの頃……。
 昨夜の思考が脳裏を過ぎる。
「確認しました。ではどうぞ、チクキカン様のお部屋は三七五号室になります」
「あ」偽名だが、慌てて訂正する。「つきのきだて、です」
「あら」造道さんは赤面した。「すみません……つきのきだて様、ですね。どうぞこちらへ」
 今まで数々の村を訪れてきたが、その先々で僕は名前を転々としていた。初めこそ佐藤や小林など、メジャーな名字を使っていたが、今となってはストックがなくなってきて、マイナーな名字を使用している。築木館という名字を聞いてわかるとおり、もはや存在するのかどうかもわからない領域にまで達しているのだ。
 そのまま部屋に案内され、部屋の外でカードキーを渡すと、彼女は一礼して持ち場へ戻った。
 彼女の足音が聞こえなくなり、僕は手渡されたカードキーをスキャンする。
 ぴぽん、ぱぽん、という音が鳴り、ランプが赤く点滅した。数秒後、青色に変わり、ドアががちゃりと音を立てた。
 ドアノブに手を差し伸べると、鍵が開いていた。近頃はどこもハイテクである。
 部屋に入り、電気をつける。予めビジネスホテルがあるか探していたが、観光業に力を入れすぎているせいか、まともなものがなかった。しぶしぶ観光ホテルを選択するに至ったが、お金も僕が出しているわけではないので、結果的に僕は得をしたことになる。
 時刻は十九時三七分を指していた。
 夕食は二十時運ばれてくると、受付の造道さんが言っていた。
 きょろきょろと室内を見渡す。ベッドにテレビ、百円を入れなければ開かない仕様になっている冷蔵庫、窓際に少し出っ張って存在する小さな和室。ちゃぶ台があり、その上にはせんべいがいくつか用意されていた。一人の部屋にしては、無駄に贅沢な気もするが、観光ホテルだから仕方がない。
 カメラを取り出し、観光案内の男性に「ラジオが聴ける」と説明したアンテナを立てた。そして、昼間に撮った写真を表示し、〔ツール〕をプルダウンで表示し、その中から〔音声入力〕を選択。スピーカー部分へ向かって「観光スポット、ヘリック岬の太陽像」と発声した。すると、少し遅れて画面に『カンコウスポット ヘリックミサキノタイヨウゾウ』と表示されたのを確認すると、僕は〔送信〕を押した。
 アンテナを伝って、相手側へ向けて情報を受け渡す。送信状態が百パーセントになると、僕はカメラの電源を切ってリュックサックに仕舞い込んだ。
 それとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
 どうぞ、と言うと、先ほどの受付の造道さんではない、別の女性が部屋へ入り、一礼した。
「失礼します」
 女性は海鮮料理を中心とした夕食をテーブルの上に並べ、九時になったら取りに来る事を伝えると、ドアの前でまた一礼し、部屋を出た。
 広いテーブル一面に置かれた料理を確認する。中央奥には船の入れ物に惜しみなく敷き詰められた各種刺身盛、左奥に透き通ったレモン色をしたたくあんの漬物、右奥にお醤油。手前中央にお寿司が、ウニ、大トロ、イカ、甘エビ、イクラ、サーモンと六貫。隅にはガリが少量。左手前には真鱈入り湯豆腐、右手前には薄切りの柔らかそうなステーキが十切れ。
 僕はまずお寿司に手を出した。まずはイクラに手を出した。僕はイクラが大の好物なのだが、このことを言うと大抵の人は「子供だなあ」と言ってウニを薦める。僕はウニは嫌いだ。
 ふと思い出したが、ガリにお醤油を浸して、ネタに付着させて食べるというのが軍艦巻きの正式な食べ方だそうだ。面倒なので実践したことはないし、する予定もないが。
 続いて湯豆腐を食べる。湯豆腐にはでかでかとした真鱈が二切れ入っており、他には椎茸や蒲鉾、春菊、ネギが入っていて、鰹節が塗してあった。木製のおたまで掬って頂く。豆腐はちゅるりと口の中に入り込み、熱いのではふはふと口内で躍らせながら飲み込んだ。
 ステーキはとろけるような柔らかさを演出していた。
 寿司があるのに刺身とはこれ如何に、と思いつつ、地元で取れたのであろう刺身各種を次々に口へと放り込んだ。
 最後にたくあんをパリポリと食べると、僕は程よい満腹感に包まれた。
 ここのところ移動中はカロリーケイトとポカリスウィッチしか口にしていなかったため、本来よりも余計に美味しく感じることができた。
 時刻は八時四三分を指している。僕は温泉に浸かるべく、着替えの準備をした。

 頭上に湯気を立たせながら自室へ戻ると、既に夕食はキレイに片付けられていた。
 僕はベッドに座った。ベッドは思いのほか弾力性の強い素材のようだ。
 ベッドがふかふかであったこと。昨日は寝ずに砂が舞う中歩いていたこと。バス内で数十分の仮眠しか取っていないこと。様々な理由が重なって、僕はこてんとベッドをに横たわり、そのまま深い眠りに就いてしまった。

       ▲ ▼ ▲

 朝食は大広間でのバイキングだった。先日の観光客たちが朝から元気に食事を楽しんでいる。普段の朝は機嫌が悪い僕も、今日の朝に関しては決して不機嫌ではなかった。昨夜はとても快眠で、とても清々しい気持ちだからだ。
 お皿にフレンチトーストとベーコン、サラダ、コーンスープを取って席に着く。僕の朝食はいつも簡易的である。
 席でフレンチトーストを頬張りながら、本日の予定を考えていると、どこからともなく「いただきまぁす!」という、聞き覚えのある元気な声が聞こえた。
「あっ」先に気づいたのはその声の主のほうだった。「旅のお兄さん!」
 某Eテレの『歌のお兄さん』的存在に認識されていることに関しては置いておくとして。
「君は確か、昨日バスで……」旅人になりたいと言ってご両親を心配させた子、とは言わなかった。
「お兄さん、ここに泊まったんですか?」
「そうだよ。君や、ご両親も?」
「いえ」少女は微笑む。「私は、ここのホテルの経営者の娘なんですよ」
 え、と僕は吃驚した。完全に予想外だったことの他に、矛盾する点がいくつかあるからだ。
「観光客じゃあ……」
 少女は首をかしげたが、すぐ解かったのか、口を開く。
「観光専用バスを利用してたから、普通そう思いますよねー。でも実際、観光バスってどこまで行っても一律二百円ですし、地元民も普通に使うんですよ!」
 思えばあの時、少女の一家はやけに荷物が少なかった。
「思いっきり観光名所らしきバス停で降りてたけど」
「祖母の家の最寄バス停ですので! ちょうど昨日は祖母の家に用事があって」少女は胸の前で両手をぐっと握り締め、まじまじとした表情で「それにしても奇遇ですね、私の家のホテルに泊まっていただなんて!」
「そうだね……」
 僕は旅人を装っているがために、またご両親に迷惑をかけてしまうのではないかと気が気ではなかった。
「それで、今日はどちらへ? もう次の村へ行かれるのですか?」
「いや、まだ」僕はリュックサックに手をのばす。「何箇所か名所をまわるよ。今日明日で次の村かな」
 リュックサックから、ここに辿り着くまで使ったボロボロなコンパクトサイズの地図を取り出した。
「……これじゃダメだな」
 折り目がつきすぎて、細かな文字が読めない。
「あ、それなら」少女はポケットからいくつかある紙のうち、一枚を手に取る。「これ、村の観光案内です!」
「あ、ありがとう。助かる」
 僕が受け取ると、少女が「そうだ!」と何か思い立ったかのように声を発した。
「今日一日、私が旅人さんに観光案内していいですか……!」
「えっ?」
 突然のことで、少し戸惑う。
「色々とこの村の自慢の観光名所を教えてあげたいんです、お願いします!」
「え、えと……」僕はずっと持ったままだったフレンチトーストを皿に置く。「まあ、タダでガイドさんがつくと思えば、嬉しいかな」
 少女はぱあっと花が咲いたような笑顔をして「そうと決まれば早く朝食食べちゃって下さいね!」と言い、バス内でやっていたようにまたぴょんぴょんと跳ね始めた。
 再びフレンチトーストを口元に近づけると、僕はふと大事なことを忘れていることに気がつき、トーストを再び口から離す。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はつきのきだて俊樹って言います。君は?」
「つきのきだて? つきのきだてって、どういう字ですか?」
 まあそうなるだろうとは思った。いくら地元の一地名だったからといってこの名前を選択したのは過ちであったと後悔する。
「建築の築の字に、植物の木、最後に図書館とかの館の字で、築木館だよ」
 少女はいまいち理解しているのか微妙だったが、つきのきだて、つきのきだて、と何度も呟いているうちに覚えたようだ。
「え、えっと、私は、これ!」
 そういって少女は、学校の名札のようなものを僕に見せた。『妙見結』と書かれている。
「みょうけん、ゆい? でいいの?」
「確かに妙見はミョウケンって読みますけど、私の場合はミョウミです!」
 通常、妙見という字はミョウケンと読み、ミョウミとは読まない。
「なんか、読みづらいね」
「お互い様ですよ! あと早く食べて下さい」
 頂きますと言ってからずっと話していたはずである結の皿は、いつの間に食べたのか既に何もなかった。
 僕は食べかけのフレンチトーストを、焦りながら口いっぱいに頬張った。


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